2021年3月27日 (土)

人新世の「EV」 序章 トヨタのミライ

昨晩は運動不足を補うために歩いた。昨日は9406歩のデータが残っている。久しぶりに目標の8000歩を超えた。

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『人新世の「EV」』は斎藤幸平氏のベストセラー『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)から思いついたのだが、気候変動は人間の経済活動の活発化がもたらす炭酸ガス排出量の増大による温室効果、温暖化によるものと考えられる。86ページの『「人新世」の生態学的帝国主義』という項の図10には鉱物産出量の増加率があり、鉄鉱石などの産出量は2000年ぐらいから急激に増大していることが示されている。これは中国の興隆と一致していると思われる。

2021年3月6日付中國新聞「香港選挙 民主派一掃へ 中国全人代 成長率6%目標」の記事によれば、中国は、まだ、一人当たりのGDPでは後進国らしいが、2035年には中流国並みに引き上げるとしている。その時には中国の経済規模は米国を追い抜くと言われる。

世界各国の地球温暖化対策の効果や正当性の根拠を示すために、今後は、経済活動と温暖化ガス排出量との関係を見る指標として、GDP当たりの排出量という目安が出てくるに違いない。

Apple社のMacBookやiPadなどはAir化して薄く軽くなってきているが、空気のように軽いわけではない。脱物質化をどこまで進められるのかが、大きな課題となっている。少なくともApple社の環境問題意識は再生可能エネルギーの使用などにおいてみることができるように非常に高いと思われるので、今後の展開に大いに注目している。

『人新世の「EV」』では、車も単に「EV」化すればよいというものではないと思われるので、車の脱物質化について考えてみたいと思っている。EVではLiイオン電池の原料問題、CoやLi原料の採掘問題が当然あるわけで、そこをクリアする方向性は今のところ見えていない。CoについてはNCAではなく、LFPを使うことでクリアされるだろうが・・・

考えてみると、一つの選択肢としては、水素燃料電池という方向性がある。これはトヨタ社の「ミライ」によって示されているかもしれない。中國新聞2021年3月6日に「水素拠点を訪ねトヨタ社長意欲」という記事が出ている。

概ね、以上のような問題意識を持って、少しずつ調べながら考えていく予定だ。

 

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2021年3月25日 (木)

人新世の「EV」 序章 テスラという黒船

さて、とにかく始めよう。更新日記の乗りと同じになってしまうかもしれないが・・・

今日は広島地方気象台が桜の開花は例年に比べ10日早いと言ったらしい。気候温暖化と関係あるのかどうかの判断は時期尚早かもしれないが、昨日のモクレンの蕾は一日で開ききってしまった。

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(3361) 黒船来航 に備えよ! 危機感を共有します。共感頂ける方はシェアを🙇 テスラ モデル3 【試乗レポート後編】TESLA MODEL 3 E-CarLife with 五味やすたか - YouTube (2021/03/21)

上海製のModel 3は相当進化しているらしい。ビジネス的にはテスラは成功しつつあるのかもしれない。ただ気候温暖化対策としての人新世の「EV」がこの程度のアイデアでよいのかということについては疑問な感じがする。日本にはまだチャンスがあるかもしれない。もっと進化を加速しないと温暖化問題への対応は難しいと思われるからだ。

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2021年3月24日 (水)

モクレンの咲く頃 - 更新日記のメタ日記化

今日は庭のモクレンが咲いたことに気づいた。とあるサイトの「更新日記 - 日曜プログラマのひとりごと」が今日20周年を迎えた。それをベースにしてメタ日記を書いてみようと思っている。

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2020年9月27日 (日)

第二の助走

さて、時間切れかどうか試そう。第二の助走を開始したい。

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2010年4月25日 (日)

1Q84

 「1Q84」のBOOK3が出たのに合わせて、BOOK1とBOOK2を合わせて読んだ。初めて読み終えた長編なので、他の作品との比較ができないのだが、短編との類似性はある程度言える。作品中に非現実的・超現実的な設定が現れることだ。本ブログでも取り上げた「神の子どもたちはみな踊る」に収録されている「かえるくん、東京を救う」に代表され、「パン屋再襲撃」や「象の消滅」など、ほとんどすべての作品が該当する。リアルな世界に非現実が闖入するのが村上ワールドの特徴なのである。それによって想像力を飛躍させ、世界を拡張させる。
 小説のリアリティを確保しながら、小説世界を構築するために様々な手法がある。リアリズムの極地としての自然主義は自分自身を描くことである。自分自身のことならすべて知っているからだ。しかしながらそれでは自分が経験した狭い世界しか描けない。そして自分自身以外のものを描くためには経験を補完するために対象を取材・研究する必要がある。多かれ少なかれ小説に取材・研究が使われることは前提だろうが、世界構築の自由度を高めるためには限界がある。
 村上ワールドの特徴は物語の自由度を高めるために超現実を導入することである。少し、それが唐突なので、最初は驚いてしまうのだが、慣れてしまえばどうということもない。「1Q84」ではリトル・ピープル、空気さなぎ、二つの月などがあるだろう。どのように超現実が物語に織り込まれていくのか楽しめばよいのである。
 4月16日、BOOK3が発売された時にBOOK1、BOOK2も入手して読み始めたのだが、BOOK2で青豆とさきがけのリーダーが出会い、予想外のクライマックスに達したと感じた。BOOK2で一旦物語は終わっているようにも取れる構成に作られている。BOOK3は話をどのように展開させるのだろうと読み始めたが、最後までBOOK2のクライマックスを超える物語の展開はないので、少し欲求不満に陥ってしまう。最後の最後だけが、見事な終わり方だということができるだろう。

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2009年1月25日 (日)

日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で

 水村美苗著「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」(筑摩書房、2008年)は最近話題沸騰らしい。新潮新年号に梅田望夫氏との「日本語の危機とウェブ進化」の対談が組まれていた。僕も昨年末一気に読み終えた。
 英語の普遍語としての位置づけがWebによって高まっていることについての危機感はヨーロッパ諸国も抱いており、母国語を守ろうという動きはあるはずである。水村氏の懸念は、近代日本文学の翻訳で世界の主要文学としての位置づけを獲得してきた日本文学の最近の状況を見ると、かなり退化しており、厳しい状況が認められるということにある。このような認識は水村氏の特殊な日本文学体験、米国での生活経験にあるようだ。「本格小説」(新潮文庫、2005年)を読むとわかることだが、その体験こそが水村氏の文学のおもしろさにつながっているように思える。事実にこそ、虚構を支える真実が潜んでいる。
 今のままでは日本語が普遍語に近い言語から母国語どころか現地語に没落するのではないかという危機感から、日本人もバイリンガルにならねばならないと主張されている。米国においてはオバマ大統領の就任演説にあるように、「世界のあらゆる所から集められたすべての言語と文化に形作られたのが私たちだ」との認識があるわけで、基本的にバイリンガル的な人民から成り立つ国なのである。英語は米国民が共通認識を持つためのツールのような役割をはたしているのではないか。同様にグローバル化の流れの中で英語は世界共通語の役割をはたすようになるのだろうと思われる。その英語を世界に媒介しているのは超?大国、米国だろう。米国の大学の研究者の名前を見ればよくわかることだが、中国、韓国、インド系の名前が非常に多いことからも想像されることである。
 グローバルに情報発信をするためには英語で書くことはWebの必須要件のようになっており、Webが英語の勢力拡大を助長しているのも事実かもしれないが、Webはあらゆる言語を表示できる仕組みになっている。UTF-8という文字コードがデフォルトになりつつあるからだ。世界中の言語の文字が同一の文字コードで表わせるのである。アラビア語であろうと中国語であろうとロシア語であろうと日本語であろうと・・・以前は英語のASCIIがデフォルトだった。言語の表示という観点からは、Webは各国語に平等な仕組みとなっている。従って、Webではけっしてローカルな言語が排除されているのではないので、世界がマルチリンガルになる可能性も有り得ないわけではない。そういう意味では日本語での情報発信の力も緩めるべきではないのである。
 日本語が単なる現地語にならないためにバイリンガルであることがなぜ必要かというと、世界の情報を英語を通じて常に日本語に吸収できるようにするためであろう。このように考えると、世界が共通の認識に到達する仕組みは意外とWikipediaのようなWebにある相互に翻訳されるコンテンツにあるようになるかもしれない。言語表現は文学だけではなく、特許などシェアの高い分野もあり、日本語はまだまだ大丈夫だとは思うが、文学も世界に通用するようにならねばならないだろう。ドナルド・キーン先生が現代日本文学にどのように興味をもたれているか聞いてみたいものである。

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2008年10月13日 (月)

地震のあとで

 村上春樹著「神の子どもたちはみな踊る」(新潮社、2002年)。この本は文庫化(新潮文庫、む 5 20)される前に2000年に新潮社より刊行されている。初出データには「連作『地震のあとで』その一~その六」として、その一から五までは1999年に「新潮」に連載され、最後の「蜂蜜パイ」が書き下ろしされたとある。
 荒川洋治著「文芸時評という感想」(四月社、2005年)には村上春樹は八箇所に登場するのだが、作品としては「ねじまき鳥クロニクル」、「アンダーグラウンド」がそれぞれ一回ずつ、「神の子どもたちはみな踊る」が五回、「海辺のカフカ」が二回である。荒川先生は「神の子どもたちはみな踊る」が村上春樹文学の頂点としており、「海辺のカフカ」は過去の作品のつぎはぎと断じている。
 それで何を言いたいかだが、なるほどそのような視点からも村上春樹を見てみようかということである。そして、内田先生の『村上春樹の主人公は「死者からのメッセージ」を読み取ろうとする能力あるいは有責感で特徴付けられる』という読み方についても考えてみたい。

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2007年7月31日 (火)

時間という名の解けない折り紙

 福岡伸一著、「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書、2007年)。
 様々な要素が渾然一体となっているが、確かに読み出したら止まらない。野口英世の細菌学から、DNAの二重螺旋構造の発見に始まる分子生物学の現在に至る、最先端の状況までを辿る歴史的な物語のなかに、現場で仕事をしてきた人のみが語れる生命の不思議さに対する感嘆が込められている。生命は単なる機械ではないということが、鮮やかに示された。

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2007年7月22日 (日)

助走

 テスト。とはいっても、物足りないのでタイトルの由来でも書いておこう。

 「脳髄の日記」は「西脇順三郎詩論集」にある散文である。西脇順三郎は僕に文学に興味を抱かせた最初の人だろう。西脇順三郎の詩は衝撃だった。「あむばるわりあ」を国語の教科書で読んで以来、心に強い印象を残した。その文体は普通の日本語とは異質だった。クールで知的だった。西洋的だった。翻訳文調だった。ただ、格好良かった。小学校だったか、中学校か。高校か。もう思い出せないのだったが・・・

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